もくわく産地だより:兵庫 / 木や森のこと

林業がない地域で木材を活用する VOL.1 〜六甲山は「はげ山」だった〜 @兵庫県神戸市

2023.08.02(Wed)

神戸の六甲山ヒノキのもくわく製造を担当していますシェアウッズの山崎です。

今日は私たちが木材を供給している「六甲山」の山ことについてのお話です。

六甲山は「はげ山」だった。

六甲山といえば地元神戸だけでなく関西の人にとっても馴染みのある山で、登山やハイキングなどリクリエーションなどにも人気の場所です。

そんな関西の人でも「六甲山」が明治の後半くらいまで 木がほとんど生えていない禿山だったことを知る人は少ないかもしれません。

六甲山の歴史は古くは 大阪城築城の時代から樹木の乱伐が繰り返され、明治末期にはほとんど木がなく大阪湾からみた景色は雪山のように白く見えたとも言われています。

明治35年(1902年)の六甲山

 

水害や土砂災害が繰り返し起きていた神戸

 

明治後半から昭和の初期にかけて急速に都市化が進んだ神戸では、さらなる山の開発や河川の移動などが進められ、何度も水害や土砂災害が起きています。

六甲山では、治山事業の一環として、明治の後半から、広葉樹林を中心とした大植林計画が実施されました。

その山のグランドデザインを設計したのが、林学博士であり、「日本の公園の父」と言われる本多静六氏です。

博士は同時期に明治神宮や日比谷公園などの植林も行っています。

 

昭和の植林の様子

兵庫県HPより

植林から100年以上経った六甲山

そんな六甲山も植林されて100年以上が経過して、今度は木を伐採しながら手入れする時代に入ってきています。

神戸市HPより

一度、人の手が入った山は適度に伐採しながら人の手を加えていかないと山はまた荒廃していってしまうのです。

ただ、六甲山はこのような背景から、林業のために植林された山ではなく防災や景観といった観点で植林された山ですので、神戸市には林業に必要な仕組みがほとんどなかったことが課題でした。

林業が存在しなかった神戸で、地域の木を使えるようになるまで・・・

私たちシェアウッズや行政、神戸市内の製材業者等が連携し、六甲山の整備で伐採された樹木をただ処分するのではなく、材として見極め有効に活用していこうといく試みが2014年ごろから スタートしました。

流通の中のプレーヤーを一つ一つ繋ぎ、連携していく

今まで使われていなかった地域の山の資源を有効に活用するためには一つの業界だけでは何もできません。

流通の中のそれぞれの役割のプレーヤを繋ぎ連携していくことがとても重要です。

六甲山には林業の仕組みがなかったのでその地域には山の木を製材する製材所もほとんどありませんでした。

1軒だけ残っていた製材所!

元々神戸には、港町で運河があり海外から丸太を輸入してその丸太(チークや米松等)を製材する製材所は地域に10数軒あったと言われています。

しかし、丸太を輸入するということも時代の流れでほとんどなくなり、そのような製材所もどんどん閉鎖されて、最後の1軒だけが神戸市内には残されていました。

その製材所に協力を仰ぎ、これまで輸入材を挽いていた製材所に六甲山材を挽くという役割を担っていただくことになりました。

六甲山木材が流通する仕組みを作るための社会実験は続く・・・

そのようなインフラの再構築やプレーヤの確保など、地域の木材を製品として出荷していくまでの長い経路をひとつづつ紡いでいくことになるのです。

これまでも、行政や市民を巻き込んだ様々なイベントや仕掛けを実施してきました。

これは、林業が存在しなかった地域で、木材流通の仕組みをどう作るかの新しい社会実験でもありました。

(次回は製材や乾燥の話につづきます)

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